キリストをみる?
タバコの隣人を通しての学び
キリストをみるって?
「目の前の人の本当の姿、キリストとしてみるんだよ」
ということの意味を間違って受けとっていました。
タバコを吸うときに配慮して欲しいと、
隣の家にお願いしにいったときに
息子が対応に出てきました。
その時、私は、
その隣人を「キリストとして見られますように」と願いながら、
話をしていました。
でも、その当時の、別の日の日記を読んでみると、
ベランダ越しに隣人と顔を合わせた時に、
(タバコ止めて~と気に障る事を言った私に対して)
会釈した隣人の顔がキリストのように見えたと
書いてありました。
たら~(((((((;^^) 違うでしょ。
顔がキリストなのじゃなくって、
彼の神聖な部分、光の部分にフォーカスするという意味なのに
大きな勘違です。(θ_θ;)ヤレヤレ
顔がキリストのように見えたというのを、
キリストのような雰囲気を感じ取ったと、
(ひいき目に)解釈できなくもないですが・・・
コースが言っているのは、
肉体の目で見た姿形のことでなく、
心の目でみること、聖霊の眼差しのことを言っているのに
レベルを混同させていました。
思いっきり笑い話です。
私は肉体ではありません。
不死なる聖霊です。
全体であり、無辜である。
私たちは肉体でなく、
スピリットとして一つだという概念を
私の中に根かせるには時間がかかります。
何度も繰り返し、教えられて学んで
日々の生活に応用することで馴染んでいくのだと思います。
コースの学びは道半ばです。
分った、受け入れられたというのは、
当社比、以前の自分の理解よりも深まったということです。
理解がヘンテコな所は
笑って赦して頂けると嬉しいです。