赦すとは?

勉強会に参加してテキストを読んで
勉強会の前と後にレポートを書いて
少しずつ赦して委ねるということをやり始めましたが

「赦す」ということがよく分りませんでした。
というよりも、分りたくなかった、受け入れたくなかったのだと思います。

分らなかったけど、
「今、私がみていることは単なる間違いです」と赦して
聖霊に委ねて、赦してくれた私を祝福する。
ということをやって来ました。

 

もしも、怒り、攻撃衝動、何らかの形で表われる愛の欠如といった自分の間違いを正当
化するために知覚を用いているなら、私たちは邪悪さ、破壊、悪意、羨望、絶望の世界
を見ることだろう。こうしたすべてを赦すことを、私たちは学ばなければならない。そ
れは、私たちが「善良」で「情け深い」からではなく、私たちに見えているものが真実
ではないからである。私たちは歪んだ防衛により世界を歪曲してしまったので、本来は
そこに存在しないものを見ている。知覚上の誤りを認識することを学ぶとき、私たちは
また、そうした誤りを超えたところを見ること、すなわち、「赦すこと」を学ぶ。
(奇跡講座 まえがき 教義より)

 

田中百合子さんが講演で
「赦すとはイエスのみかたに見方を変えること」
と言っておられたのが思い起こされます。

 

肉体の目を通して見ることの反対がキリストの心眼であり、それは、弱さではなく強さ
を、分離ではなく一致を、恐れではなく愛を映しだす。肉体の耳で聞くことの反対は、
神を代弁する声を介した親交であり、その声である聖霊は、私たち一人ひとりのうちに
宿っている。(奇跡講座 まえがき 教義より)

 

今、ここで書くことで
私の中で曖昧だった「赦す」ということが
クッキリハッキリと認識されました~

 

そして、肉体について

心が肉体を何らかの形の攻撃に使いたいと思うなら、肉体は病気や老化や衰退の餌食と
なる。一方、心が聖霊の目的を受け入れるなら、肉体は他者と親交をするための有用な
手段となり、必要とされる間は傷つくことなく、その役割が終われば静かに横たえられ
るものとなる。肉体はそれ自体ではよくも悪くもない。これはこの世界のすべてのもの
ごとと同様である。(奇跡講座 まえがき 教義より)

 

私は病気を本当に終わらせられたのかと不安でした。
でも、聖霊の目的を受け入れ聖霊の言うとおりに使うなら
(使ってもらうなら)必要とされる間は傷つくことがないのだと
今、書いて、認識されました~
老化もせずに済む!
聖霊の言うことを聞いた方が絶対いいですね!


よく分らないという私も赦されていたのですね!
分りたくないと言いながら
やり続けてくれた、ゆうわさんありがとう~